「206」日直日誌#11 「越さんに話を聞く。後編」

  こんにちは。「206」日直の中村です。公演まであと2日になりました。

 今回は、越さんへのインタビューの後編になります。これまでのインタビューで言及されてきた「変化」について、越さんに直接聞いてみました。また、演出家としての試みについてなども伺いました。

 前編をまだ読んでいない方は、ぜひそちらからお読みください。また、これまでのインタビューも読んでいただけると、つながるものがあるかと思います。こちらもぜひお読みください。



(越寛生さんです。体育座りをしている。)

——川村良太さん、中村あさきさんのインタビューにて、お二人が「今回はいつもに比べて、作品の領域が変わったような部分がある」という発言をされていましたが、作家の越さんにとってはどのような部分がありますか?

越寛生さん(以下、越):一番は、手法を変えました。演技やセリフの手法みたいなものです。これまでだったら、ちょっとちっちゃい声で言っていたような事を、ちょっと大きい声で喋るようにしています。

例えば、今までは、ゴムボールでキャッチボールをしているイメージで、やっている側は確実に痛くないしキャッチできる。それを、今回は、セリフを書く段階で、なるべく、硬球にしようとしました。セリフの質が柔らかいものから硬いものになったんじゃないかなと思います。

セリフを硬くしたのは、一つは硬い言葉を喋るというのは、恥ずかしいことだと思っていたのだけれど、そういう硬い言葉で、キャッチボールをしているのを見る方が見ていて興奮するな、と興味が移ってきたからというのがあります。もう一つは、テーマと関係あるのかもしれないけれど、割と、ちゃんと言わないとダメな気がする、という気持ちになったからです。ニュースを見ると、政治に興味がないと言われていた高校生たちがデモにいくみたいな、ことがあるので、俺もなんとかしないと、ちゃんと書かないと、という意識があって、そこから、「あ、セリフを硬くしよう」となりました。

——あおのゆきかさん、國吉咲貴さんのインタビューで、「『スーサイド・イズ・ペインレス(以下、スーサイド)』と『206』には共通の構造がある」という指摘がありましたが、この共通の構造について、越さん自身がどのように認識しているか、お話しください。

:あおのや國吉が指摘した事とは、少しずれているかもしれないけれど、ずっと思っているのは、誰か「語り手」みたいな人がいないとお話が書きにくいなぁ、ということです。

普通のお話の語り方、は、時系列に全部則って「こういうことがありました」というふうに語っていくものだと思うのですが、自分は、話し始めるひとがいないと、話が書けないので、回想としてお話を始めるっていうのが、私にとってすごく合っているんですね。それは、いつも、お話を書くにあたって、「けど、なんでこんなことをお話しなきゃいけないんだろう」と思ってしまうから、その言い訳として、語り手というのを配置します。この人が喋りたいから喋るということがすごくしっくりくるので、回想をよく使っています。

また、今回、『206』を書くにあたって、『三人姉妹』を読み直したら、トゥーゼンバフという人が姉妹の三女のイリーナを好きなんだけれど、相手にしてもらえないというのがあって、俺が大学生の時に好きな人の家に行っていたけれど、あまり会えなかったというのとちょっと似ているな、と思いました。だから、今回の語り手はきっとこの人がいいだろうと思いました。

俺がいつも最初に書きたいって思うのは、一つのシーンしかないんです。『スーサイド』だと、冒頭の照明研究会のシーン、『フランドン農学校の豚』だと、食卓のシーンなんですけど。あとは、書きたいテーマがあります。今回でいうと、戦争だったり、ヘイトだったり、です。

こうして、最初にやりたいシーンとテーマの二つの軸があるのだけれど、これだけだと、これだけやればいいじゃん、って感じになります。例えば、戦争反対なら、戦争反対!って言えばいいし、そのシーンがやりたいなら、そのシーンだけをやればいい。そのままだと、お話にする必要がなくなってしまうので、きちんとお話にする動機が必要だな、って思って、誰かがこれを話したいんですという風に整えると、しっくりくるんですよね。能楽でシテ(主人公)とワキ(脇役)がいて、シテが話し始めてワキが聞く、みたいな、そんな感じをイメージしています。

今後は、回想じゃない語り方も挑戦したいと思っていて、例えば、その日に始まって、その日のうちに話が終わるということもできるようになりたいです。

——今回、演出家として新たに取り組んだことがあれば教えてください。

:さっきのボールの例えで話すのですが、前は、役者さんが投げやすいように、柔らかいボールを使ってもらってたし、ちょっとでも投げにくそうだったら、もっと柔らかそうなボールにしたり、そういう工夫をしていたのだけれど、今回は、硬いボールでもこの人たちならばちゃんと投げてくれるだろう、というのを信頼できた、と思います。前は過保護な親みたいな感じだったけれど、今は自主性みたなものをちゃんと信じられている気がします。

俺がすごく苦手なタイプの劇って、なんか、「俺のボールの投げる様を見ろ」と主張されるような部分があるんですが、硬いボールを投げているタイプの劇って、そういう劇が多いなあと思っていました。

じゃあ「俺のボールの投げる様を見ろ」という感じにしない為には、どうすればいいのだろう、と思って、最初は、硬いボールだから、強く投げたくなるんじゃないか、柔らかいボールで下手投げにすれば、そうならないんじゃないか、ということを思っていました。だから、いわゆる口語を積極的に使っていました。

でも、時間堂のやっていたワークショップに参加してから、硬いボールを「俺のボールの投げる様を見ろ!」というのではなくて、ちゃんと投げあえている俳優を見て、すごいなと思ったのです。それを見て、あ、自分でもこういうのをやりたい、って思いました。

だから、今は、「俺のボールの投げ様を見ろ」にならないためにやるべきことは、ボールの種類を変えることではなくて、投げる側の態度、相手にちゃんととってもらうということをちゃんと意識してもらうことなのではないか、と思っています。

ボールを投げたあとの動作をきちんと意識してボールを投げたり、投げた後も、ボールをちゃんと受け取れたかなぁ、いつまたボールが届けられるかなぁ、ということを意識するように演技してもらうように、演出しています。

——今回は、越さん自身が久しぶりに出演されますが、役者としてはどのようなことを意識していますか?

:普段、自分が演出で言っていることが、無知蒙昧というか、理屈は正しいと思うし、言っていることはわかるけれど、それをどうやってできるが問題なのか、はすごくわかりますね。正直、あんまり自分には向いてないんじゃないか、と。 

自分はこれまで下手投げしかできなかったから、そうなると、俺はボールをちゃんと投げられる人になれるように頑張らなくてはならない。だから、とても、頑張っています。

——今回の出演者について、稽古場で気づいたことがあれば、教えてください。

:あおのはすごいです。今回はよく喋ります。

ぴーちゃん(永井久喜さんのあだ名)は、登場シーンは短いんですが、しっかり仕事をしてくれます。

浅見さんはどんどんすごくこちら、というか、ヤリナゲな感じになってくれている。

國吉はとてもかわいいです。

良太とあさきさんは、これまでもたくさん出てくれたけれど、今回はちょっと変わったと思います。

良太は本当にすごいなと思う。なんか、代役で、女の子の役をやった時とか、女の子に見えるわけじゃないけれど、なんかすごく毎回面白いことが起きる。彼は、努力研鑽の人だから、それが背景にあるんだと思うのだけれど。あと、変な言い方かもしれないけれど、書いたことをそのままやってくれています。

あさきさんは、もともとダンスをしていた人だから、声と体と感情があるとして、持っているものをこれまで、体で表すことに向かっていたのだと思うんです。だから、これまで柔らかいボールを使ってきてもらったのだけれど、今回は、ちょっと硬いやつを投げてもらって、その硬いやつを投げられるようになっているので、あさきさんはこれはすごいことになるぞ、と私は思っています。

——それでは、最後に今回の見所を教えてください。

:今回はわかりやすい、とてもわかりやすい。と思います。

あと、國吉がかわいいです。すごくかわいい。けれど、あれを見て、嫌だと思うひともいるだろうな、と思う。けれど、可愛いです。

 (劇)ヤリナゲ第6回公演「206」は、今週の水曜日、12日からです。まだまだ予約受け付けておりますが、少しずつ完売の回も増えてまいりました。まだ、予約されていない方は、是非お早めに、次回公演のページをチェックして、チケットを予約してください!

 次回はいよいよ、日直日誌の最終回を予定しています。「206割」をめざす戦いの終わりを、是非お読みください。